小学校低学年の時には、佐藤サンっていう同級生の女の子はいた(M.S)、多分引越しでいなくなったと思う。T高田の大学時代の知り合いを除いて、たいていの知り合いは知ってるはずだが、少なくとも女性の佐藤サンがいた記憶はない。
Hは社会人になった後、忘年会でいった覚えがある。それ以前にいったかどうかは定かではない。行ったのは改修後で、それ以前から店があるのは知ってたし、父親が時たまそこを使ってたのは知っている。
習字教室について、母方の祖母の友人の夫が先生をしていた。名前は二神だったと記憶している。字が汚いということと、祖母のつてで通うことになったが、あんまり行った覚えがない。日曜の朝から昼までしかやっていない、まぁ退職した先生(なくなった祖母は教員免許を持ってたので、その友人夫婦だから多分元教員だったと思う。)がチョコチョコとやってるようなものだった。学年ごとの当日の手本を書いて、きれいに出来上がったのを先生に見てもらい、添削をして、文句なければ帰れるというものだった。行くのがいやだったのは、同じクラスの女の子二人が通っていたから、字か汚いのでなかなか帰れなかったからだ。習字道具を毎週小学校から持って帰らないといけないというのもあった。ちょうど国道から外港へ抜ける市の東西のとおりの海の近くにあったのだと思う。覚えていることはは3つ、奥さんのほうは足を患っており、いつも階下にいて、半紙なんかを売っていた。先生のほうで、教室は昼で終わるので、11時ころ行き、だらだら書いてたが、時間が押し迫ったので、本当はだめだがと言われて帰されたこと。添削の列が切れたときに、大きな声で習字のエピソードを話したこと、『昔中国の偉い先生が、立派な看板に字を書いたが間違ってしまった。直そうと表面を削ったがかなり下まで浸透してた。白髪三千丈と言うから、大法螺だろうが』やめてからか、まだ通ってたときかわからないが、もう年だからといって教室はたたんだと聞いた。その後のことは知らない。生きておられれば100歳前後だから、もうお二方とも亡くなっているだろう。